香港のある縫製工場のお話

代表ブログ

大学卒業後、私は日本の中堅繊維商社(当時売上250億円くらい)に入社しました。
入社2年目、24歳の時に、その会社が初めて作る海外現地法人・支店立ち上げの任務を受けて、香港に転勤となりました。

当時の私は日本のビジネスすら理解していないのに、香港の現地法人立ち上げなんてほとんど笑ってしまうような人事でした。
『会社はバカなのか?』とさえ思いましたが、自分自身にとってはこんなチャンスもないので、精一杯経験させてもらおうと、意気込んで香港に乗り込みました。

その香港転勤が、私の初めてのパスポート取得となりました。
24歳の私に会社は、ビジネスクラスのチケットを用意してくれました。
当時の部長が『上野くん、君はまだ香港行きのチケットを予約していないだろう。だったら、旅行会社に電話をかけてCクラスのチケット発券してくださいと言いなさい』
私は、Cクラスの意味が分からず、A、B、Cと3クラスあって、Cクラスは後ろの方のトイレの隣くらいの席だろうと想像していました。

香港赴任後、若い私は、数々の難問、悩みに毎日ぶち当たり続けました。
日本の本社で働いていた時の先輩、上司に何度も相談しましたが、彼らは自分の仕事で忙しいし、
まして、初めての海外支店で起こる私の問題や悩みに真正面から回答できる人は誰一人いません。
そんな香港で、私にビジネスを教えてくれたのは、たくさんの香港人、中国人、台湾人、、、。
さまざまな人と出会い、知り合い、その一つ一つが自分の考えや生き方に大きな影響を与えてくれました。

そんな中の一つのお話です。

ある縫製工場と懇意になり、一生懸命、仕事に取り組んでいた時に
その会社の社長が自分の生い立ちについて話してくれました。
その方は、文化大革命(1966年5月 – 1976年10月終結)のさなかに混乱を続ける中国の将来に不安を感じて、
家族の中で自分と父親の2人で、広東省から、珠海市を通りマカオを経由して香港に逃げてきました。
珠海市というのは、マカオと陸続きです。
当時のマカオはポルトガル領土の為、自由主義体制でした。
珠海とマカオは陸続きであっても、これは正規の入国ではなく、密入国なので陸地を通ってマカオに入ることはできず、
珠海とマカオの間にある幅200mくらいの狭い入り江を夜中に命からがら泳いで渡ったそうです。
海を泳いで渡るために泳ぎの練習もしたそうです。
彼の母親や弟は、泳いで逃げる事は断念し、そのまま中国に残り、家族と離れ離れになったそうです。

マカオに入国後は、マカオから香港に渡る事は難しくなかったとのこと。
香港に入国した時、彼はまだ13歳。
その後、縫製工場で裁断工として働き始め、仕事が終わった後、夜は服飾の学校に通い、服飾や縫製の勉強を重ねました。
経営や英語の勉強も独学でつづけたそうです。
数年後、お金をためて、中古のミシンを8台購入し、彼は縫製会社を立ち上げました。
その会社が20年後には、中国にたくさんの工場を持つ社員3000人の企業となっていました。
まさに香港ドリームです。

その会社で私の会社の担当は、当時の私よりも5歳くらい年上の30代の本当に厳しい女性マネージャー。
彼女は、思ったことをすべて私にずばずばぶつけてきました。
『うちのお客様は日系商社ばかり。伊藤忠、丸紅、三菱商事、、、、。合計15社。その中であなたの会社への売上額は13位です。
13位って有っても無くても困らないレベルです。なのに、なぜそんなに値下げや無理難題の要求ばかりするのですか? 
そんなに値下げ要求するなら、対応できないので、他の会社と取引してください。御社はうちにとってなくなっても全く困らないですから』
平気で毎日そんな事をぶつけてくる女性でした。

私が日本で仕事をしていた時は、売上が小さいお客さんでも、『はい、はい、すみません、ありがとうございます』と毎日、頭を下げて仕事をしてきたのに、
香港はまさに力だけがモノをいう世界でした。 ビジネスに情け容赦はありません。
売り手よりも買い手(お客様)の方が上という価値観は、香港には一切存在しなかった。
日本で1年間お仕事をして培ってきた価値観は、毎日ことごとく瓦礫のように崩れていきました。

私は香港の現地法人で6年間、仕事をして転職しましたが、その間にその縫製工場との取引は急激に拡大し、
数年の内には、13位から4位にまで売上額の順位は上がっていました。
あるとき、その縫製工場の社長が私に話しかけてきました。
社長  『上野くん、あなたは車の免許を持っていますか?』
私   『はい、持っていますが、どうかしましたか?』
社長  『私は、メルセデスベンツを持っていますが、車の免許を持っていません。平日は運転手を雇っていますが、土日は運転手がいないので、ベンツは誰も使っていません。もし上野くんがよければ、私の車を休みの日に使ってほしいです』

私はそんな大きな車を運転するのは怖いし、もしぶつけたりしたら修理費用もきっと高くなるので、そのオファーは丁重にお断りしましたが、私が尊敬する社長が、自分をそこまで信用してくれているのがとても嬉しくて、頑張って仕事をしてきた事が認めてもらえた気がして、涙が出そうになるくらいうれしかったです。
私が結婚した時も、彼は香港から日本まで駆けつけてお祝いしてくれました。

当時1990年代の香港ですが、
そこら中に香港ドリームを成し遂げた人がうじゃうじゃいて、
昼は必死に仕事をして、稼いだお金は勉強につぎ込み、夜は大学や大学院に通いながら、
みんなが夢を見て、みんなが夢に向かって走り続けていました。
自分の周りを見たら、80%くらいの香港人がそんな生活を送っていたと思います。
自分の会社の香港人スタッフももちろん同じでした。

経済が急成長の香港で、ハングリーに戦い続ける人達の中で私は毎日、たくさんの刺激を受けながら青春を送りました。
当時、香港の一人当たりのGDPはまだ日本の3分の1程度だったと思います。
でもその時私は、『近い将来、香港は日本を超えるだろう』と確信しました。
その事を当時、日本の人に話すとそんなバカな話はないと一笑に付されました。
『香港はすごいんです』と日本にいる人達に訴えても、誰にも取り合ってもらえなかったです。
その後の20年くらいの間に香港のGDP(1人当たり)は約3倍に拡大し日本を超えました。

忘れられない思い出の一つです。

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