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[本記事は【フランス販路開拓最新情報】日本の技術でパリを”創る”[番外編②(前編)]の続きです。]
街路事業
大都市政策研究機構(*1)によるとのオスマンは以下の三原則を掲げ、街路事業に着手しました。
①古い街路を拡幅し直線化を図る
②幹線道路は複線化によって交通循環の円滑化を図る
③重要な拠点は斜交路で接合する
それにより総長64kmに及ぶ道路がパリに登場しました。(*2)
リヴォリ通りやセバストポール通り、サン・ミシェル通りの延長、シャンゼリゼ通りの整備、オペラ通り(帝政期には未完成)など、パリジャンによく知られた大動脈が作られたのです。
公園事業
ナポレオン三世は衛生環境が劣悪だったパリの当時の状況を鑑み、新鮮な空気の供給源として公園の整備にも熱心に取り組みました。
ブローニュの森を左肺、ヴァンセンヌの森を右肺とみなす人体モデルを念頭に計画が構想されたといわれています。
オスマンの技術者の一人であったアルファンによって改造されたモンソー公園、中世から石膏の採石場であったビュット・ショーモン公園、モントゥリス公園など、現在パリジャンたちに愛されている公園の多くはこの第二帝政期に誕生したのです。
上下水道事業
衛生状況の改善には上下水道の整備が不可欠。
オスマンは、土木技師ウジェーヌ・ベルグランを上下水道局長に抜擢。
彼の指揮の元、150kmほど離れたデュイス川、ヴァンヌ川を新たな飲用水の水源とするための導水路を敷設しました。
同時にパリの地面の下に巨大な下水道システムを設置。当時としては大きな革新でした。
1850年には100kmだった下水道が1878年には600km近くにまで整備されたのです。
公共施設事業
オスマンは公共施設の整備にも着手。
司法宮(パレ・ド・ジュスティス)の全面改修、ルーブル美術館の完成、チュイリュリー宮殿の改修などを行いました。
各方面の専門家や建築家にも業務を委託。以下のような例が挙げられます。
‐ シャルル・ガルニエ:オペラハウス(1862~1875)
‐ エミール・ジルベール:オテル・デュー
‐ ヴィクトール・バルタール:レ・アール[改修]
また、1860年にはパリが拡張され、近隣のコミューン(ベルヴィル、レバティニョール、オートゥイユの一部など)が加わり、パリの面積はほぼ2倍、人口も50万人近くになりました。
オスマンの庇護のもと、これらの新しい地区には役場、学校、兵舎、病院などの公共施設が設置されていったのです。
まとめ
日本ではあまり有名ではないジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン。
このブログによって、彼がフランスにもたらした功績の大きさが伝わっていれば幸いです。
*1:https://imp.or.jp/special-1-3/
*2:https://www.paris.fr/pages/haussmann-l-homme-qui-a-transforme-paris-23091
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